勉強とはなんでしょう?
学問とはなんでしょう?
私はこれから、哲学的な思考に耽ろうとしているのではありません。(それもとても有意義なことだと思いますが)
この問いの答えは、勉強する人、学問する人なら、常に意識しているべきものです。
その答えとは何か。
それは、
知らない物事について知ること
だと私は考えます。
~以下、読み飛ばし可~
私は、ソクラテスの言葉を模倣しているのではありません。
むしろ、ソクラテスの言葉をも包含している、と言ってもいいでしょう。
ソクラテスは「無知の知」を唱えました。
「私は、『私は知らない』と言うことを知っている」と。
(これは、世界史を学んだ人であればピンと来なければならない知識です!)
これが、私の考える「学問」の意味そのものとは異なるものであることは、少し考えれば理解できると思います。
「無知の知」が学問なのではありません。
むしろ、「無知の知」という哲学的重要命題を発見したソクラテスの行為自体が、学問にあたるのです。
(「命題」の数学的意味については「数学」のカテゴリでお話しするかも知れません)
つまり、ソクラテスは、かつて自らが知らなかったことについて思索をめぐらし、自ら発見することで、新たにそれを知りました。
これこそ、学問であります。
なぜなら学問とは、「自らが知らない物事について、新たに知ること」ですから。
ソクラテスは哲学者です。 哲学とは学問の一つですね。
これを考慮すると、この帰結は、極めて自然なことであるのかも知れません。
~以上、読み飛ばし可~
学問が、「知らない事柄について知ること」であることを納得して頂いたことを前提にお話しを進めていきます。
勉強も同じです。
私は、学問とは「知らない事柄」について自ら探求していくこと、勉強とは「知らない事柄」について先人の知識を用いて追求していくこと、だと考えています。
ですが、「知らない物事について知る」という本質は変わりません。
そして、この本質を前提に、一つの態度が生まれます。
それは、「知らないこと」と「知っていること」を明確にする、ということです。
何を知らないか、何が分からないか、明確に意識しているのといないのとでは、学習効果に雲泥の差が出てきます。
同じ教科書を読む行為にしても、これを意識して読むことによって、メリハリがつきます。
知っているところは読み飛ばすか、確認程度に留めておく。
知らないところはじっくりと理解しながら読む。
全てを漫然と読むのと比べて、効率が断然に良いことは明白でしょう。
知らないことを、知っていることとしていく作業が勉強です。
「何が分からないか分からない」という状態がいかに危険な状態であるか、みなさんならもう分かりますね?